徒然ガクセイ夜話

徒然なるままに、とりとめもなしに、己が興味に従いあれこれ書いていくブログ

「田舎」という幻想~のんのんびより総論~

のんのんびより』とは、あっと原作の田舎に住む少女たちの日常をゆるりと描いた漫画作品であり、川面真也を監督として一期:2013年10月~12月、二期:2015年7月~9月にアニメも放送された人気作品です。

いわゆる日常系に位置する本作……可愛い女の子がのんびり暮らしているのを眺めるだけ……それなのになぜか泣けてしまうのです。

癒しとも違う何か、胸にジンとくる暖かさ

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今回はそんな『のんのんびより』の魅力の源、クスクス笑えてホロリと泣ける、不思議な感覚と雰囲気の謎を私なりに考えていきたいと思います。

総論などと仰々しく書いていますが、体系ばったことは別に書いていませんので悪しからず。

*「田舎」の日常

田舎とは一体なんでしょうか。

都会から離れた場所、自然が多いところ、人口の少ない過疎地域、交通機関が発達していない場所、高層建築のないところetc.

人々が思い描く田舎のイメージは大体こんなものでしょう。田舎に住んでいる・住んでいた人もいれば、全く田舎なるところに住んだことも行ったこともない人もいるかもしれません。しかし、上記のような田舎イメージは誰もが持つもの、当たり前に有しているものです。

そして、人々が田舎に対して抱くイメージの内最も重要なのが、「人と人との温かな交流・地域コミュニティ・自然との共存」です。

これらのイメージは少し特殊です。先ほど挙げた田舎イメージは地理的・外観的なものだったのに対し、これらは社会的で人間生活の根幹に関わるものを言及しています。

社会の有り様、人として生きる前提についてのイメージがそこに立ち現れているのが分かるでしょう。そこには何かしら人々が田舎に託す思いが隠されているように見えないでしょうか。だとしたら、人々は田舎に何を期待しているのか。

では、こうした田舎イメージを分析しつつ、それが『のんのんびより』でどう機能しているのか捉えていきます。

*喪失感・欠落感を埋める「田舎」

高度経済成長時代、田舎に住む者たちは職を求め都会へと旅立っていきました。人々はなぜ田舎を捨てさる(ように見える)ことができたのか。

それは、当時の日本がまだ国家目標・国家成長という「理想」を持っていたからに他なりません。未来にまだ希望が持てた時代、日本の未来に能天気でいられた時代、そして都会への憧れがあった時代。

64年の東京オリンピックと70年の大阪万博をピークとし、73年の第一次石油ショック以降日本人は未来や都会に対するバラ色なイメージを持ちづらくなりました。10年先の未来が真っ暗で、自分たちの生活が安定したものに思えなくなった。絶対的な事柄・不変的な要素を見失ってしまった。

いわゆる「大きな物語」の喪失です。

そうして「大きな物語」はフェイクとしてしか機能せず、大澤真幸の言う「虚構の時代」(70年~95年)が訪れます。    

[以上の内容は、クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲でノスタルジックに分かり易く描かれていますので、興味のある方はご覧ください]

では、「虚構の時代」に何が起こったのか。

普通ならばオウム真理教の話になるのでしょうが、ここでは人々の田舎イメージに舵を取っていきたいと思います。

 

東京ドリームや都会への憧れが「理想」の喪失によって弱まり、都会に住む人たちにあるものが欠落します。それは、「人と人との温かなコミュニケーション・日本の経済事情に支配されない安定的な生活」というイメージ(幻想)です。これは「大きな物語」とは直接関係ありませんが、少なくとも「虚構の時代」がもたらした一事象として捉えられるのではないでしょうか。つまり、都会生活への希望が絶望に転移し、その反射として郷愁的な田舎のイメージに「理想」(それは虚構であるかもしれない)を見出したのでしょう。言わば、都会や日本に対する明るい未来への展望の喪失を受け、田舎がその欠落を補うべく機能したのです。田舎は傷ついた都会人・労働者の帰るべき場所として、また生を肯定し「生きることはそんなに悪いもんじゃない」と思わせてくれる象徴として存在するようになった。もはやここでは田舎は本来の意味から遠く離れ、様々な望みと象徴を纏って「田舎」になっていることが分かります。

 

さて、ようやくこの「田舎」の受け持つ要素と『のんのんびより』の関係性が明らかになりました。

のんのんびより』の描く田舎の日常は広い意味でごくありふれたものです。学校に通い放課後は友達と遊び、連休中も遊んで、季節の行事では家族と近隣の人との親睦を深め豊かな人的コミュニティを築き上げていく。れんちょん(宮内れんげ)は駄菓子屋のお姉さんに昔から世話され、今でも親子のように親しく交流している。なっつん(越谷夏海)は成績や普段の態度を母親に諭され家出しかけたことも。ほたるん(一条蛍)はそんな愉快な田舎っ子たちの世界に徐々に受け入れられていく。

家族との関係、日常生活、学校ぐらし、近所付き合い、友達関係、善意のやり取り等が非常に理想的な形で描出されているのが『のんのんびより』の特徴です。全ての要素が良好で、人に向けた善意が直接善意として受け取られ、望んだ結果を確実に生じさせます。しかし、そうはいかないのが社会です。善意が人々にねじ曲がって解釈されるのがほとんどで、そもそも善意が受取人を幸福にするかどうかも定かではありません。

人と人が疑い合い、善意の行く末は誰にも分からない、それこそが現実の有様だと人は考えるでしょうか。

その通りだと答える人は多いでしょう、しかしその答えもどこか怪しげに思えてきます。少年・少女時代、夢を追いかけし頃、自分が赤ん坊だった時の親の姿、それらが走馬灯のように広がり答えるのを邪魔します。

 

のんのんびより』は何を描いているのか? 

やっとその答えが見つかりました。それは、理想の欠落を埋めるべく創造された「田舎」を洗練し、人間生活の普遍的要素を理想的状態で組み立てることによって生み出された日常に他なりません。故に人々は『のんのんびより』に、あった(ありえた)かもしれない事象を見て感動することができるのです。『のんのんびより』での一つ一つのお話はある種フック・象徴にすぎず、人々は話の要素に反応して自ら(もしくは世界)の中からストーリーを紡ぎだします。それこそが私たちを感動させる犯人の正体ではないのでしょうか。

*「虚構」なき今

原作漫画の連載は続いているものの、『のんのんびより』のアニメ放送が終わった今巷では「難民」なる者たちが溢れかえっています。(かくいう私もその一人ですが……)

「理想」の代替品としての「田舎」を失い、現実世界に嫌気がさしているのでしょう。

しかし、思うに『のんのんびより』は私たちに癒しと感動は与えるのですが、現実世界に持ち帰るものを提供してはいません。強いて言えば、親と友達は大切にしよう、ぐらいのものです。

現実世界や社会に「理想」はないかもしれない、「虚構」を見出せないかもしれない。ですが私たちはそこに存在し生きていることは確かです。今日まで日々を積み重ねてきたことも確かです。生きたいならそこに「いる」しかないのです。

 

ある友達がこんなことを言っていました。

「希望はなくとも驚きはあるかもしれない」

学者やお偉いさん方には笑われるかもしれませんが、「理想」も「虚構」もないなら「驚き」にすがるしか術はないように思うのです。淡々と日々は続くけど、確実には予想できない日々を私たちは送っている……その事実が現代の人々を現実に繋ぎ止めているのではないかと思わずにはいられません。

 

「父親代わりの駄菓子屋」とか音楽・演出についても書きたかったのですが、またの機会に譲りたいと思います。暇があれば各論も書こうかな

のんのんびより』良い作品ですよ、観て損はないはずです。